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□ 資源No : 860 □ 分 類 : 観る(歴史・史跡) □ 地 域 : 大井地区 □ 最寄駅 : 立会川駅 □ 住 所 : 東大井3丁目18 |
■ 観光資源のプロフィール
立会川沿いの高知藩山内家の下屋敷(1万6千800坪)と抱屋敷は東海道の往環を挟んで東西に位置し、抱屋敷は河口に位置していた。第15代藩主山内豊信(山内容堂)が安政の大獄に関連して隠居・謹慎を命ぜられて蟄居したのがこの下屋敷であった。
河口の抱屋敷に地続きで、、寛永6年(1953)に砲台が築造され、「浜川砲台」と呼ばれた。(現在の浜川中学校周辺)
・しながわの史跡めぐりより
立会川沿いの高知藩山内家の下屋敷1万6千8百坪余りと抱屋敷(かかえやしき)(揚場869坪)は東海道往還を挟んで東西に位置し、抱屋敷は河口に位置していた。ともに万治元年(1685)に拝領、囲込によって取得したもので、表門通りで結ばれていた。下屋敷は大井村の他に、木挽町(こびきちょう)築地(現・中央区築地)にもあった。
第15代藩主山内豊信(容堂)は、松平慶永(よしなが)、島津斉彬(なりあきら)、伊達宗城(むねなり)らとともに、国政の方向について論議建策したので、「幕末の四賢侯」と称されている。安政の大獄に関連して隠居・謹慎を命ぜられ、蟄居したのがこの下屋敷であった。また、河口の抱屋敷の地には、嘉永6年(1853)に砲台が造られ、浜川砲台と呼ばれていた。
安政2年(1855)頃の高知藩主山内土佐守豊信は24万2千石の家禄があり、上屋敷は鍛冶橋(かじばし)御門内大名小路(現・千代田区丸の内)にあった。
<品川区教育委員会>
・坂本龍馬と品川
ペリーが初めて来航した嘉永6年(1853)、19歳の坂本龍馬は藩から許可を得て江戸で剣術修業中であった。
土佐藩は立会川河口付近にあった下屋敷警備のため江戸詰めの武士を動員し、龍馬もその中に加わった。品川での黒船警固から龍馬の幕末は始まったのである。
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