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来迎院(らいごういん)

・資源No:926
・分類:観る(歴史・史跡)
・地域:大井地区
・住所:大井6-18-8
・最寄駅:大森駅

 ■資源プロフィール

・俗称:お茶屋寺
・天台宗
・寺伝によれば、南品川「常行寺」の住僧尊栄法印が、969年に慈覚大師の命を受けてこの地に鹿嶋神社を勧請し、同時に当寺を建立したことに始まる。

安和二年(969)南品川常行三昧寺の尊栄住職が、常陸鹿島神宮から勧請し、慈覚大師円仁作の薬師如来像を本地仏として、「鹿島示現山常住I林寺観音来迎院」という名の寺を、大井関が原(東大井6丁目)に建立したことに始まる。
鎌倉時代になって衰え無住になっていたのを、貞和三年(1347)了覚法印が再興し現在地に移した。その時に示現山常林寺観音院と改称した。
江戸時代になって3代将軍家光が、正保二年(1645)境内に大井御殿を新造し、鷹狩の時の休息所にしたので、俗に「茶屋御殿」と呼ばれ、寺も「お茶屋寺」と呼ばれていたという。
境内は桜樹が多く植えられていたので桜の名所として賑わい、たびたび将軍の来迎も得て、その尊崇を受けてきたと伝えている。家光は薬師如来を厚く敬い、日光・月光両菩薩像、十二神将像を奉納している。
天保四年(1833)には上野寛永寺の塔頭涼泉院が兼務することになり、鹿島山来迎院と改称、明治新政府の神仏分離令により無理やり別れさせられ(鹿嶋神社と来迎院に)今日に至っている。
明治8年から4年間「大井第一小学校」が置かれていた。
来迎院の本堂は寛文七年(1667)の建築で東京最古と伝わるが、浅草寺六角堂は、元和四年(1618)と50年ばかり古い。

来迎院石造念仏講供養塔3基(指定文化財・民俗第4号 S53.11.22日指定)
(来迎院前道路を挟んだ三角地・大井6-15-22)
江戸時代に盛んに行われた念仏講の供養塔で右側の堂内に地蔵菩薩を刻んだ2基、明暦2年(1656)と万治2年(1659)、真ん中の堂との間に「南無阿弥陀仏」と彫られた笠塔婆1基、寛文7年(1667)が建てられている。
・江戸時代初期に大井村でも念仏講が存在していた貴重な資料。

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