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五百羅漢寺(ごひゃくらかんじ)

・資源No:880
・分類:その他(その他)
・地域:その他地区
・住所:区外
・最寄駅:不動前駅
・電話:03-3792-6751
・備考:目黒区下目黒3-20-11

 ■資源プロフィール

拝観料:有料
歳時記:修正会 1月1日〜3日
    節分会 2月3日
    原爆忌法要 8月6日
    羅漢さん祭り 10月第2日曜
    除夜会 12月31日

江戸時代の元禄8年(1695)に黄檗宗(おうばくしゅう)の寺として本所五ッ目通り(現江東区)に創建。
京都の仏師、松雲元慶禅師(しょううんげんけいぜんじ)が10年の歳月をかけて彫刻した536体の羅漢像を安置して、江戸市民の信仰を集めた。
洪水、地震など何度かの天災にあって、明治41年(1908)にこの地に移った。
一時衰退したが再興し、昭和56年(1981)には新堂宇が完成した。
五百羅漢は現在305体が残り、東京都指定文化財になっている。

・松雲元慶(しょううんげんけい)と五百羅漢
五百羅漢寺の五百羅漢像(東京都指定文化財)を作った松雲元慶(1648〜1710)は、『江戸名所図会』によれば、もとは京都の仏師で俗名を九兵衛といい、22歳のときに摂津(現大阪府)の端竜寺の鉄眼禅師に師事して、出家したという。仏道修行のため諸国を行脚するうち、豊前国(現大分県)で五百羅漢をみたことから、自ら五百羅漢像を作ろうと志した。
 のち江戸に出て人々の浄財を集め、元禄のはじめごろから羅漢像を作りはじめた。元禄7年(1694)には、5代将軍徳川綱吉の生母桂昌院の寄進により、羅漢像10体を作ったという。翌8年(1695)には、本所五ツ目(現江東区大島3丁目)に、天恩山五百羅漢寺を創建した。
 この寺で松雲は次々に仏像を彫りつづけ、宝永7年(1710)になくなるまでに、五百羅漢像をはじめ本尊の釈迦如来像など全部で536体もの仏像を残した。作家、吉川英治は、この松雲の生涯をモデルに、短編小説『悲願の旗』を書いている。
 松雲の五百羅漢像は、等身大で一体ずつ表情やしぐさに特徴があり、いきいきと個性豊かに彫られている。明治時代の彫刻家高村光雲(1852〜1934)も、若いころこの五百羅漢像を手本に修行したという。
 五百羅漢寺は、松雲の死後、享保期(1716〜1736)には、6000坪(約19800平方メートル)もの広大な敷地をもつ大寺となり、五百羅漢は江戸庶民の「観光名所」になった。『江戸名所図会』には、列をなして羅漢像を拝観する人々の姿が描かれている。 
『しながわ史跡めぐり』より

http://www.rakan.or.jp/

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