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安楽寺(あんらくじ)

・資源No:878
・分類:観る(歴史・史跡)
・地域:大崎地区
・住所:西五反田5-6-8
・最寄駅:不動前駅

 ■資源プロフィール

天台宗
(山号)松園山
 室町時代後期の弘治2年(1556)に開かれたと伝えられる。かつては本堂の裏手に70坪ほどの池があり、池の周りに萩が繁っていたので「萩寺」と呼ばれたが、今はその面影はない。

○安楽寺石造供養塔群(品川区指定文化財・有形民俗第10号)
本堂の左手に8基ある。庚申供養塔5基。馬頭観音供養塔2基、題目供養塔1基でうち7基は目黒川の谷山橋脇に建てられていたものを、目黒川改修工事の際、ここに移したもの。谷山村、桐ヶ谷村などの村名や施主名が列記されている。

○塩かけ地蔵
本堂手前左手にある。願をかける者が足元に塩を供える習慣があるのでこの名がある。永年農地に像の下半身が塩で溶けてしまったといわれるが、実際は風化によるものであろう。

○連理塚(れんりつか)
塩かけ地蔵の隣にある。平井(歌舞伎では白井)権八と遊女小紫にゆかりの塚。もとは下目黒の明王院という寺にあったが、明治初年にこの寺が廃寺になったのでここの移された。
 権八は、歌舞伎「浮世柄比翼稲妻(鈴ヶ森)」に登場する。因藩国鳥取の藩士だったが、人を殺して金を奪ったため捕らえられ、鈴ヶ森で処刑された。愛人だった小紫は権八の死を悲しんで自害したという。


○しながわ昔話(安楽寺の「火中出現御影写」の供養塔)

西五反田五丁目にある安楽寺は四百五十年ほど前に開かれた古いお寺です。このお寺には、江戸時代、庶民の間で広く行われた「庚申待」にちなんだ供養塔があります。その中のひとつ「火中出現御影写」の文字と、青面金剛像、邪鬼、日・月、鶏、二猿が刻まれた庚申供養塔には、こんなお話が伝えられています。

寛政十一年(1799)のことです。上大崎村にすむ農民、清次郎の家が火事になってしまいました。「大変だぁ、清次郎の家から火が出たぞ」
 近くにすむ農民たちは、いそいで清次郎の家にかけつけました。清次郎の家には、六十日ごとにめぐってくる「庚申待」で使う掛け軸があずけてありました。それには、大切な庚申様のご本尊である青面金剛が描かれていました。みんなで、水をかけていっしょうけんめいに火を消そうとしましたが、なかなか火は消えません。「あぁ、大切な庚申様が焼けてしまう」。農民たちは、なんとか掛け軸だけでもはこび出そうとしましたが、火のいきおいが強くてどうすることもできません。そのとき、火の中から掛け軸が天高く舞い上がり、くらやみの空へと消えてしまいました。「おぉ〜。庚申様が天に昇った」。そのありさまを農民たちはなすすべもなくみつめていました。
 それから三日後のこと。近くの大きな木のえだに、すすけた掛け軸が焼けずに引っかかっているのが見つかったのです。「庚申様が無事にお戻りになったぞ」。役人の高木喜左衛門は、この不思議なできごとを聞いて深く心を打たれ、掛け軸の青面金剛を、石に写しとり「火中出現御影写」と彫った供養塔を造りました。
 谷山橋のそばにあった供養塔は、その後、川や道路の改修工事のため安楽寺に移されたということです。

【庚申待】
 六十日ごとにくる「庚申」の夜、眠ると体から三尸という虫(鬼神)が出てきて、寿命を司る神にその人の悪事を報告するので、眠らずにいるというのが「庚申待」です。庚申様を祀った後、寝ずに過ごしてごちそうを食べるという習俗で、江戸時代に盛んに行われました。

広報しながわ 平成19年(2007)8月1日 第1641号 掲載

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