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光福寺と大イチョウ

・資源No:809
・分類:観る(歴史・史跡)
・地域:大井地区
・住所:大井・6-9-17
・最寄駅:立会川駅
・電話:03-3771-5895

 ■資源プロフィール

・創建は奈良時代末の延暦元年(782)で、当初は天台宗の薬王院神宮寺と称したという。鎌倉時代の元久年間(1204-06)に親鸞(1173-1262)門下の関東六老僧のひとり了海上人(生没年?)が、浄土真宗として延応元年(1239)光福寺と改めた。
・境内墓所内には大きなイチョウの木。その下に、大井の地名の由来となった井戸がある。
   
<品川区指定文化財・天然記念物第1号>
大イチョウ
樹齢800年といわれるこの木は、幹囲6m40cm、樹高30mと整った壮観な姿をみせ、木の勢いも盛んである。明治時代まで、東京湾に出漁する漁民たちが、航行する時の目印にしたという。
(港区の善福寺の「逆さ銀杏」と兄弟木とされる)

○光福寺・了海上人と蔵王権現信仰
地名「大井」の発祥のひとつとされるのが、浄土真宗光福寺の境内にある「大井の井」である。この井は、御家人大井氏の出身で、後に関東における同宗の活動に大きな影響を与える了海上人「産湯の井」と伝えられている。了海は、大井の蔵王権現にお祈りしたことで産まれたという伝承があり、吉野金峯山寺を発祥とする蔵王権現信仰との繋がりを感じさせる。
蔵王権現とは、修験道の開祖である役行者(役小角)が吉野の金峯山上で感得したと伝えられる修験道の神様(本尊)である。
『新編武蔵風土記』など江戸時代の史料によると、大井の蔵王権現社は字権現台(現在のJR東京総合車両センター付近にあった大地)にあり、同地は大井氏の分家である品河氏の居館跡であるとも伝えている。

品川歴史館特別展「大井」−海に発展するまち− より

◆光福寺の大イチョウ(しながわ昔話)
 大井六丁目にある光福寺の境内には、高さ約四十メートル、幹の周りが約七メートルもある大きなイチョウがあります。区の天然記念物になっているこの大イチョウには、こんな話が残されています。

 今から何百年も前のことです。お寺の庭の手入れをしていた植木職人の親方が、大きく伸びたイチョウの枝を切ろうと思い、弟子に声をかけました。「おい、あのイチョウの枝を切れ!」「親方、それはいけません」「なぜじゃ?」「この大イチョウにはたたりがあるんです」「そんなことがあるものか!いちいち怖がっていたら、植木職人がつとまるか!」
 弟子はしぶしぶ大イチョウに登り、のこぎりで枝を切ろうとしました。すると、どうしたはずみか、弟子は足をすべらせて地面に落ちてしまいました。親方や寺の人たちがかけつけると、気を失っていた弟子はやっと目をさましました。しかし、弟子はあたりをキョロキョロ見回すだけで、ひと言も話そうとしません。「どうした、わかるか!?」「大丈夫か?」と声をかけましたが、弟子はただ「あー、あー」というだけで、言葉をひと言も話せなくなってしまいました。
 その翌日の夕方のことです。「さっきからずっとイチョウばかりを見つめて、どういたしました?」と、お寺にいるおじいさんが親方に声をかけました。「だって、いまいましいじゃないか。昨日は若い者が落ちて、口がきけなくなってしまったんだから」「このイチョウには刃物を入れてはいけないと昔から言われていますから」「たたりなんかあるものか。よし、わしが枝を切ってやる!」
 おじいさんが止めるのもきかず、親方ははしごを登っていきました。長く伸びた枝にのこぎりを入れたときです。親方はまっさかさまに落ちて庭の石に頭を打ちつけ、そのまま息たえてしまいました。
 それからというもの、このイチョウは切られることなく樹齢を重ねました。

 現在は、樹形を整えるために、せん定をすることがあります。

【光福寺】
 延暦元年(782)に建てられたといわれる天台宗のお寺でしたが、文永二年(1265)に了海上人によって天台宗から浄土真宗に改宗され、名前も「光福寺」に変わりました。了海上人は、善福寺(港区)のイチョウのひと枝をゆずり受け、境内に植えたといわれています。大木となったイチョウは、明治時代まで品川の海で魚をとる漁師たちの目印にもなったほどでした。

広報しながわ 平成20年(2008)11月1日 第1688号 掲載

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