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沢庵漬け(たくあん漬け)

・資源No:946
・分類:学ぶ(しながわ事始)
・地域:品川地区
・住所:北品川3-11-9
・最寄駅:新馬場駅
・電話:03-3471-6943

 ■資源プロフィール

■たくあん漬けは品川が発祥です

北品川にある東海寺を開山した沢庵禅師が日頃清貧を心がけ、作り上げた『たくわえ漬け』を時の三代将軍・徳川家光公に献上したところ、たいへん美味であり、将軍より沢庵が作ったのであるから『たくあん漬け』と命名するよう進言され、この名がついたと言われている。
現在、沢庵は東海寺大山墓地に眠り、墓石がたくあん石のような形をしている。

■沢庵 宗彭(たくあん そうほう)
北品川3丁目東海寺は、禅宗の名僧沢庵宗彭最晩年の5年間を過ごしその生涯を閉じたところである。寛永16年(1639)三代将軍家光は深く帰依していた沢庵を迎えるために建立。19万uの広さで品川の海をのぞみ、紅葉の名所でも知られる自然美に溢れる環境を与えた。しかし、沢庵は権力を拒み質素な暮らしぶりを変えることは無く沢庵漬けも東海寺で保存の工夫をした大根の貯え漬けであり今、再現されたものである。

足利幕府が倒れて織田信長が入洛した天正元年(1573年)12月兵庫・出石に生まれる。
父は兵庫県・出石城主に仕える武士。沢庵は感性豊かで武道にも優れていた。10歳で浄土宗の唱念寺に入り写経に励んだ。4年後禅宗にひかれて勝福寺に移り修行する。1594年石田三成が建てた三玄院で宗彭という名を与えられた。このころの沢庵は非常に貧しく毎日の食事にも事欠く有様であった。

その後、堺の大安寺に行き、文西洞仁について儒教や漢詩を、また細川幽斎からは和歌を学んだ。沢庵はここでも相変わらず貧乏ではあったが精進は熱心に続けられていた。

1609年沢庵は37歳で後陽成天皇の詔をうけて大徳寺153世の住持となった。
沢庵を慕う豊臣秀頼や細川忠興らの招きより静けさを求めての生活を好んだ。

1634年後水尾上皇に招かれて禅談義をし、徳川家光とも対面している。
家光は北品川に東海寺を建て沢庵を開山に迎え、たびたび訪れていた。

1645年病に倒れた沢庵は、読経も法事もいらない石塔や位牌もいらないといい、大きな「夢」1字をしたため12月11日息を引き取っている。

激動の織田・豊臣時代から江戸幕府三代までの世の中の移り変わりを禅の心で見つめ続けた73年の生涯である。


■しながわ昔話(将軍家光と沢庵和尚とたくあん漬け)

 北品川三丁目に、東海寺という臨済宗のお寺があります。今から三百七十年ほど前の寛永十五年(1638)に江戸幕府三代将軍の徳川家光が建てたお寺です。その翌年、家光に命じられて最初の住職になったのは沢庵宗彭というお坊さんでした。沢庵和尚は大変立派なお坊さんで、きわめて質素な生活を送っていました。
 たくあん漬けの由来は、沢庵が考えだしたという説や、沢庵の墓石が「たくあん石」に似ている説などいろいろありますが、次のようなお話が残っています。
 ある時、お城で出される料理に飽きていた徳川三代将軍の家光公は、品川へ出かけたときに、ふと思い立って東海寺を訪れました。家光公は、品川に東海寺というお寺を建てて、そこの住職にした沢庵和尚が、なかなかおいしい料理を出すといううわさを聞きつけていたのです。
 ちょうどお昼どきでしたので、家光公は、沢庵和尚に向かって、「なにかめずらしい食べ物はないか」と、和尚の自慢のおいしい料理をごちそうしてくれるように望みました。すると、沢庵和尚は、「寺のことゆえ、珍しい物はありませぬが、たくわえ漬けという香の物でよろしければ」といいました。「それでもかまわぬ」と、だんだんおなかがすいてきた家光公は、答えました。「かしこまりました」。そういって、沢庵和尚は奥に準備にいったきりで、なかなか料理が出てきません。
 家光公がしびれを切らしたころに、やっと、おぼんに、湯づけ(湯をかけただけのご飯)と漬け物がのせられて、しずしずと家光公の前に出されました。あまりに少ししかない料理を見た家光公は、びっくりしましたが、もう、おなかがぐうぐうなってがまんができなくなっていたのです。そこで、「この漬け物は何か?」と聞いたところ、沢庵和尚は、「たくわえ漬けといいます」と答えました。そこで家光公は、「今日からは、このたくわえ漬けを和尚の名前にちなんで沢庵漬けと名付けてはどうか」といいました。

広報しながわ 平成19年(2007)5月1日 第1631号 掲載

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