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天龍寺(てんりゅうじ)

・資源No:422
・分類:観る(歴史・史跡)
・地域:品川地区
・住所:南品川4-2-17
・最寄駅:新馬場駅
・電話:03-3474-3523
・備考:しながわの史跡

 ■資源プロフィール

曹洞宗(山号)瑞雲山
・安土桃山時代の天正9年(1581)、越前国福井領主の母を開基として開かれた。
・徳川家康は、2世住職の嶺育を篤く信頼し、江戸城近くの下谷に、
 同名の寺を建てて、嶺育を住まわせたという。

碑文谷踏切責任地蔵尊
ゼームス坂を下って突き当たった東西の道は、品川宿から碑文谷仁王尊(碑文谷法華寺、現在の円融寺)へ向かう碑文谷仁王堂と言われていた。そこにある天龍寺の本堂の左側、墓地への入り口の脇に大きな耳に手をかざし何か物音を聴いているような姿の小さな3体の地蔵がある。「碑文谷踏切責任地蔵尊」と言われている。
大正七年(1918年)5月18日深夜、M銀行の行員が大崎の自宅に帰るため品川駅から人力車に乗り碑文谷仁王堂に入った。東海道線までの急勾配の上り坂を登り、現在は隧道になっている碑文谷踏切にさしかかった時遮断棹は上がっていた。渡り始めた時右から下関行きの貨物列車が迫ってきた。人力車の車夫は慌てて逃げたが、客の行員は逃げ遅れ跳ね飛ばされ即死した。その時当直の踏切り番は二人いた。しかし、一人が仮眠中で一人が居眠りをしていたため遮断棹を下ろさなかったのが原因だった。当時踏切り番は激務にもかかわらず朝7時交代の一昼夜勤務であったため、みんなは過労から居眠りをしてしまったのだろうと話し合っていた。
しかし、二人は事故の責任を痛感し、事故の直後大井町駅寄りの線路上に身を伏せて命を絶った。当時の都新聞(東京新聞の前身)にも「会葬者皆泣く葬儀」と二人の踏切り番の死を悼む記事が掲載され、多くの人の同情を誘った。
天竜寺の「碑文谷踏切責任地蔵尊」は、この事故で亡くなった行員と踏切り番の供養のために造立されたものである。(しながわ昔話)

寺の脇の煉瓦塀は、京浜工業地帯の名残。
・天龍寺脇の碑文谷道には、京浜工業地帯発祥の地を偲ばせる古いレンガの遺構が散在している。なだらかな坂道に合わせ、段々になっており、塀の距離も長く美しい。
・その他、清光院奥平家墓域、日本ペイント明治記念館、JR赤煉瓦工場、など、周辺には京浜工業地帯発祥の地を偲ばせる古いレンガの遺構が散在している。

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