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天妙国寺(天妙國寺)No.029/030

・資源No:411
・分類:観る(歴史・史跡)
・地域:品川地区
・住所:南品川2-8-23
・最寄駅:青物横丁駅
・電話:03-3471-7921
・備考:しながわ百景No.029/No.030

 ■資源プロフィール

顕本法華宗(山号)鳳凰山
・鎌倉時代の弘安8年(1285)に、日蓮の直弟子天日上人が開いたといわれる。
・その後の各時代、地域の有力者に保護され、たびたび所領の寄進を受けたため広い寺域を有するようになった。
・15世紀の中ばには品川湊の豪商だった鈴木道胤親子が、17年の歳月を
 かけて七堂伽藍を建設した。
・戦国時代に関東を制覇した北条氏も、たびたび寺を戦乱から守るための
 制札(立て札)を出して寺を保護した。

・天正18年(1590)、徳川家康が江戸に入る際にこの寺に宿泊したため、
 将軍家との関係が生まれ、翌年10石の寺領を受けた。
天妙国寺のお会式(資源1041)には、品川中の万灯が集結し、壮観。

(天妙国寺の沿革)
・顕本法華宗、京都総本山妙満寺の末寺。
「妙国寺縁起」によれば、弘安8年(1285)、日蓮大聖人門弟中老の天目上人の創建。堂宇落慶の折、鳳凰が飛来したことにより鳳凰山と名づく。
妙法蓮華経の力をもって国家安穏を祈る意味で妙国寺(現 天妙国寺)とされた。
第二祖日叡上人の代、檀信徒の帰深く、有力者に寺領の寄進を受け広い寺域を有した。
15世紀中頃には、品川湊の豪商、鈴木道胤が梵鐘を寄進、さらに17年の歳月をかけ七堂伽藍を建立した。
二万二千余坪の拝領地に塔頭四院を擁し、その偉容は品川郷に輪奐の美を誇った。
慶長19年(1614)品川の象徴と親しまれた五重塔、大風のため倒壊。三代将軍徳川家光により再建されるも、元禄15年(1702)2月の大火により類焼し、現在に至る。(天妙国寺の案内より)


○天妙国寺の古文書・書跡・絵画
・「妙国寺文書」(東京都有形文化財古文書)・・・15世紀の中世文書を中心に江戸末期にいたる文書でいずれも品川の歴史を語る貴重なもの。
・「紙本着色妙国寺絵図」(東京都指定文化財)・・・寺境内を中心に、周囲の景色や参詣する人々の様子を活き活きと描いた寺社参詣図。
・「日什筆曼荼羅」(区指定文化財・書跡第1号)
縦38,横15,4センチ、紙本墨書、軸仕立である。中央に南無妙法蓮華経の七字を大書し、その左右および下に、多宝・釈迦・四菩薩・日蓮など多数の諸尊名が梵字の種子で書かれている。
・「日蓮消息文(上野女房御返事)」(区指定文化財・書跡第2号)
・「日什諷誦文及置文写 1巻」(区指定文化財・書跡第3号)

☆墓地に眠る人々

○桃中軒雲右衛門(1873〜1916)
・本名、岡本峰書。明治時代の浪曲界の先駆者で浪花節中興の祖。
・「赤穂義士伝」を得意とした。墓は、五輪塔型。

○お祭り佐七(生没年?)
・四世鶴屋南北作「心謎解色糸」に登場する鳶の頭。墓は、梵鐘型。

○伊藤一刀斎(?一説に1560〜1628)
・一刀流の祖で、33回の真剣勝負に一度も敗れなかったという。
・慶安2年(1649)の銘のある板碑型の墓。

○3代目 鶴賀新内(?〜1841)
・新内節の創始者・鶴賀若狭橡の弟子で、文化12年(1815)に3代目新内を襲名。
・中興の祖といわれる。

○芳村伊三郎(生没年?)
・歌舞伎「世話情浮名横櫛」の主人公、斬られ与三郎のモデルという。
・実際は4代目芳村伊三郎という長唄の師匠。

○本多日生(1867〜1931)
・天妙国寺第36世住職で仏教学者。日蓮宗各派の統一と大衆への布教に努めた。
・墓は歴代住職の墓域のなかにある。

○しながわ百景
・天妙国寺の山門と無縁仏 #029
・天妙国寺の墓地 #030

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