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品川台場(御殿山下砲台跡)

・資源No:151
・分類:観る(歴史・史跡)
・地域:品川地区
・住所:東品川1-8-30
・最寄駅:北品川駅

 ■資源プロフィール

御殿山下砲台跡
現在の台場小学校。幕末、江戸の町の防衛のために築かれた「品川台場」のひとつ。
・他の台場と異なり、資金不足の計画変更のため、品川の海岸沿いに陸続きで五稜形の砲台が築造され、154門の大砲が備えられた。

・品川灯台
品海橋を築いた石や、明治3年(1870)から昭和32年(1957)まで第二台場にあった品川灯台(国の重要文化財に指定され愛知県犬山市の明治村に移築)のレプリカが台場小学校庭入口に残る。

・品川台場
 1853年6月3日(幕末)ペリー来航に衝撃を受けた幕府は、江戸内湾防御のために11基の台場築造を計画した。
工事は、勘定吟味役の江川太郎左衛門が指揮を取り、同年8月から御殿山・伊予今治藩や泉岳寺の一部の土砂を切り崩して進められたが、完成したのは「御殿山下砲台」を含めて6基であった。現存するのは、「第3台場」(都立お台場海浜公園)と「第6台場」のみである。

・品川台場(参考資料)
1853年(嘉永6年)6月、アメリカのペリー司令官率いるアメリカ東インド艦隊が、浦賀に来航した。「黒船来襲」である。アメリカ艦隊は江戸湾にも侵入し、湾内の測量なども行った。開国を迫るアメリカに幕府は、江戸湾の防備として台場構築を決定した。
品川台場は、品川宿南品川猟師町から東北に深川洲崎に至る海上に2列11基、南品川猟師町1基、合計12基を構築するというものであった。
御殿山下の台場が五陵形、あとは六陵形で第1台場は26247坪であった。
台場構築に着工したのはペリー来航後わずか2ヵ月後、嘉永6年8月第1台場から第3台場までは8か月後の嘉永7年4月に竣工。
第5、第6台場は嘉永7年11月竣工した。
次いで第4・7に着工したが資金不足で途中中止し、その代わりに洲崎弁天の海岸陸続きに御殿山下台場(今の台場小学校)を構築し、第8-11は未着工となった。
構造資材は関東の松・杉を坑木とし、石材は相模、伊豆、安房から船で運び、土砂は御殿山や高輪付近の山を切り崩して使われた。
台場完成の翌年安政2年(1855年)第13代将軍家定が台場に渡り、砲台の試射を検分した。
膨大な費用を投じて構築された品川台場の砲台が火を噴いたのは、この試射が最初にして最後になってしまった。
(出典 幕末品川台場始末)

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