泊船寺(はくせんじ)


□ 資源No : 42
□ 分  類 : 観る(歴史・史跡)
□ 地  域 : 大井地区
□ 最寄駅 : 青物横丁駅
□ 住  所 : 東大井4-5-2

■ 観光資源のプロフィール

泊船寺 臨済宗 (山号)天林山
はくせんじ
東大井4-5-2

室町時代の永徳2年(1382)に開かれたといわれる。江戸時代の初期、1680年代に住職を勤めた千巌宗億(せんがんそうおく)が俳人、松尾芭蕉と親交が深く、境内に牛耕庵(泊船堂、芭蕉堂)を建てて芭蕉を迎えたと伝えられる。
文化年間(1804〜18)には、俳人2世とかくさいさんど杜格斎山奴(白牛禅師)がこの寺に住んだことから、たびたび句会が開かれるなど、芭蕉を慕う多くの俳人が集まるようになった。

○泊船寺彫刻<品川区指定文化財>
白牛禅師坐像(彫刻第10号)、俳人石川積翠が刻したとされる松尾芭蕉坐像(彫刻第11号)、芭蕉の弟子の服部嵐雪(彫刻第12号)、と宝井其角の坐像(彫刻第13号)、がある。いずれも木造の寄木造のもの。

○泊船寺句碑
境内には「いかめしき音やあられの檜傘」「旅人と我名呼れんはつ時雨」の芭蕉の句碑をはじめ、山奴句碑「漁火に鳥の飛行霜夜哉」、谷口楼川(もくせいあん木犀庵)句碑「はせをの前に芭蕉なく芭蕉の後にはせをなし」など、芭蕉にゆかりのものが多い。いずれも江戸時代後期、寛政から天保年間(1789〜1844)の銘が記されている。

・「旅人と 我名呼ばれん 初時雨」
高さ1m程の句碑は本堂正面に設置されている。芭蕉100回忌の折、俳人 石河 積翆(せきすい)が芭蕉像を作って寄進した。
碑の正面には「芭蕉像安置」の文字裏に「旅人と・・・・・・」
の句が刻まれており、旅人という自分の運命を受け入れ、楽しむ風情が見受けられる。

・「いかめしき 音やあられの 檜傘」
芭蕉150回忌 天保14年(1843)に俳句の会、星野連が建立した。

泊船寺には多くの句碑があり、別名俳句寺。
牛耕庵は享保のごろに焼けてしまったが、のちに泊船堂(芭蕉堂)が建てられ、俳人の杜格斎山奴(さんど)が住み句会が開かれ江戸南郊外の俳壇として一派を作った。

○しながわ昔話(泊船寺の夜泣き芭蕉像)
江戸時代、松尾芭蕉は泊船寺(東大井4丁目)の住職と親交が深く、境内にある牛耕庵をとても気に入っていたそうです。元禄七年(1694)、芭蕉が亡くなるのと同じころ、牛耕庵の古池の横にあった、芭蕉が好んだ柳の古木が枯れてしまいました。約百年後、俳人石河積翠がその柳の古木で芭蕉坐像を彫り、寺に安置したと伝えられています。

ある夜、寺から芭蕉坐像が盗まれてしまいました。みんなで手をつくしてさがしましたが見つかりません。
 盗まれた像は、古道具屋に売られていましたが、古道具屋の主人はその像が、泊船寺から盗まれた芭蕉像とは知りませんでした。
 その日の真夜中、「おい!おい!」と、どこからか人を呼ぶような声に、店の主人は目をさましました。まわりに人はだれもいません。「気のせいかな」と思って眠ろうとしましたが、しばらくすると、また、声が聞こえます。表の戸を開けてみても、だれもいません。おかしいなと思いながら、布団にもぐりこむと、やはり声がするのです。主人が声のする方へたどって行くと、どうやらその日に買った像から聞こえてくるようです。おそるおそる像に近づいてみると、像は目に涙をうかべて、「わしは、早く寺に帰りたい」と、かすかな声で言っています。次の日も、また次の日も、同じように泣くので、主人が調べてみると、泊船寺から盗まれた芭蕉像だとわかりました。かわいそうに思った主人は、ある夜、芭蕉像を白い布に包んで、泊船寺の門のところにそっと返しておきました。
 翌朝、寺の小僧さんが、門前で白い布に包まれた芭蕉像を見つけて、元の場所に戻しました。これを聞いた村人たちは寺に集まり、「芭蕉様が戻ってきたぞ」とみんなで喜びました。

広報しながわ 平成20年(2008)3月1日 第1662号 掲載

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